卵の殻が割れるとき

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教育という他者支配

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 道徳を教科化することによって子供に自分たちの理想とする価値観を植え付けたいという考えが透けて透けて。

 価値観というのは与えられるだけのものではなくて、日常の環境や経験の中から浮かび上がってくる個性そのものであるわけです。それを教え導くことによって「望ましい」方向に矯正しようというのは、「自分の思う通りの人間をつくりたい」、ひいては「それによって評価されたい」という支配欲・承認欲の現れでしかないというのは、これまでにもよく言われてきたことです。


 体系を有する学問であっても、教えられた内容の本当のところは、実践によって初めて実感を得、その本質に近づくことができるわけです。既成概念にとらわれず、時には視点を増やすことも必要です。一度道を外れてみる事で、あらためて王道がなぜ王道たるのかを知ることもあります。当たり前のことですよね。

 道徳に関してもそれは同じで、自らの経験によって初めてその裏付けを得ることができるというのは語るまでもないことです。ただ人生は学問と違って不可逆の部分も少なくないですから、方向修正ができる範囲で周囲が手を貸していく必要はあります。様々な経験を積むことは重要なことですが、それが命の危険や一生の負債を作るようではさすがに困ります。そしてそれは一定の「善なるもの」を植え付けようとするタイプの道徳教育とは全く異なるものです。

 これは2chのコピペですが、

お前らも小中学校時代は先生や親に褒められる「いい子」じゃなかったか?

おれはそうだった。

授業は真面目に受け、宿題はきちんとやり、掃除もさぼらず、PTAで問題視されるようなテレビは見なかった。

手元にある漫画は毎月定期購読してる小学館の学年誌だけ。

同年代の子供達の間で人気があった少年漫画やアニメはまともに見た事すらない。

近所からも親からも先生からも「いい子」と言われ、大人の喜ぶ子供であり続けた。

そして親から遊んではいけないと言われた友達とは遊ばなかった。

反面、同級生とは会話が合わないこともあり、疎まれていただろうし、思春期の始まりだというのに女の子と接触など皆無だった。

むしろ遊んでる連中をちょっと蔑んで、悦にいっていたかもしれない。

しかし、何の疑問も抱かず、そうすることが幸せになることなのだと一片の疑いもなかった。

高校は地元では比較的頭のいい学校に行った。

しかしクラブ活動もせず(できず)、友達も少ない俺は次第に内向的傾向が一層強くなり、

優等生という地位も自然に失っていった。

なんとか一浪の末、東京の二流大学に進学できたものの、ろくに友達も出来ないまま無為な学生生活を過ごした。

結果、コミュニケーション力も行動力もない俺は就職に失敗。

地元に帰って、職を転々として未だフリーター生活。

地元周辺を歩いていると、小中時代の同級生に出くわすことがある。

もちろん挨拶などしない。向こうはこちらをロクに覚えてもいないだろう。

当時は不良のレッテルを貼られていたような奴らが、奥さんや子供を連れて幸せそうに買い物をしている。

立派な家庭人として、社会人として暮らしている。

それに比べて俺は何なんだろう。

定職ももたず、結婚はおろか恋愛経験すらない。

かつて禁止されていたゲームやアニメが今の生きる支え。

かつて読んではダメと言われていた劣悪図書が部屋に溢れている。

俺は幸せになれるはずの優等生ではなかったのか?

親は先生はそうなるために俺を褒めてくれていたのではなかったのか?

誰が悪いのか?親か?学校か?社会か?それとも俺か?

両親はそんな俺に何も言わない。俺も何も言わない。

ただなんとも言えない閉塞感と劣等感と後悔だけが俺を支配している。

 これはあくまでコピペであり、さすがに極端でしょうが、今言う「道徳教育の充実」は文脈上、より個人の価値観に踏み込んだ道徳教育を行いたいという姿勢の表明にほかならないと考えます。しかし過度なコントロールは変化に対する柔軟性を奪い、時に可塑性を失わせてしまいます。

 一点物の作品製作ではないのですから、通常プロフェッショナルは「アソビ」を入れるものであり、素人はその感覚がわからないからこそ余裕をもったところから手探りで適切な範囲を探すものです。しかしこと道徳教育の話になるとこの「アソビ」はしばしば無視されます。彼らにとっては子供たちにきっちり理想を実現してもらわなくては困るのであり、それほどに他者の価値観に影響を及ぼすことは支配欲を掻き立てるのです。

 これは昨今の体罰問題にも通ずるもので、教育というものが本質的に他者支配の一型であり、少なからずエゴイズムの発露であるということを、教育者は自覚しなくてはなりません。