卵の殻が割れるとき

1年にわたりこちらの方でブログを書いてきましたが、もとのBloggerに帰還することにしました。現在はこちら→http://ichiharu-bl.blogspot.jp/

私と獅子舞

 年末年始、学生らしく実家に帰省した。

 実家はいわゆる雪国県である。帰省前も「結構降ってるんだろうな~」などと悠長に考えてはいたのだが、帰宅早々に視界を奪う凄まじい地吹雪に見舞われることになり、散々な思いでの帰省となった。

 そんな過酷な環境でもやはり愛着のある地元である。機会あれば中学や高校時代の友人と会い、酒を飲み、昔話や近況を語り合った。家では年の瀬の大掃除や餅つきなど、家族の年中行事をこなす。年が明けたら一家で初詣に行き、兄弟の受験祈願。その後は家に親戚を呼び、新年を祝いもする。毎年のことだが、実家を離れて生活する現在となっては家族の繋がりを再確認する上で大変に意義深い。まだまだ若輩者だが、この歳でわかることもあるのだなあ、と感慨深くもあった。

 新年になると、自治会による獅子舞が行われる。これはそれなりに古くから地域の年配者によって行われてきたもので、神主と着物で正装をした一行が集落の各家をまわり、その家の座敷に上がりこんで獅子舞を舞うというものである。一軒一軒まわるために時間はたいそうかかるのだが、彼らは2日かけて根気強くすべての家をまわり、対して家主は酒を用意しその労をねぎらう。彼らが来る日はうかうかと外出もできない。今どこをまわったかなんて情報が集落を飛び交い、一行が近くまで来るとお囃子の音が聞こえてきて、家の者たちは「そろそろだな」なんて迎える準備を始める。

 私は毎年この獅子舞が本当に楽しみで仕方がない。たかが自治会規模ではあるのだが、長年舞やお囃子を続けているとやはりそこにはある種の熟練が帯びてくるもので、先代の舞のうまさはそれは素晴らしいものだった。獅子頭だってそんな大層なものではない。唐草模様の布で作った胴だって、中で舞う人間の頭が2つはっきりと突出していて、とてもリアリティなんかない。

 しかしそうであってなお、その舞には不思議な息遣いが感じられるのだ。

 彼らのつくりだす何とも表現しがたい「間」が、そこにある以上のものを想起させるのだ。どこにでもいる爺さんたちが舞う獅子舞に、私はどうしてこうも魅了されるのか。それ自体はものの数分だ。毎年同じ内容の振りを、同じように舞うだけ。大袈裟だと思われるかも知れないが、けれど私はその背景に、形容しがたい何か息づくものの存在を感じるのだ。

 その中でも私がとりわけ大きな意味を感じている一節がある。それまで口を開け、大きな眼(まなこ)を見開いた状態で舞っていた獅子が、その胴を覆う布の一部で眼を覆い、いっぱいまで顎を広げた状態で大きく揺れるように舞うのである。

 獅子は神の遣いと言われる。私たちはその獅子を自らの家に招き入れ、神前(この場合神棚の前)での舞によって邪を祓い、加護を得ることを請う。獅子は舞の大部分では、家からの捧げ物を神に示し、家を清め邪から護る頼もしい存在として振る舞う。しかしこの一節に限っては、獅子はそのあり方を変えるように思われる。物を見る眼を覆い隠し、その大きな顎を目いっぱいに開け広げる姿は我々を護るどころか、その持つところの「力」を示し、供物と引き換えに護りを請う我々の驕りを暴くかのようだ。あるいはそれは大地に宿る神の振るう猛威、時として我々人間に牙をむく、自然の力の誇示であろう。

 座敷で粛々と行われる獅子舞を前にそんなことを真剣に思っているのは、もしかしたら自分だけなのかも知れない。さすがに考えすぎかな、などと思いながら、今年も獅子舞を拝む。

 そういえば、今年は頭を齧られなかった。